座間市の概要
座間市は、神奈川県のほぼ中央に位置し、南北に伸びる座間丘陵を境に相模川に沿った低地と相模野台地に分かれ、起伏に富んだ地形となっています。古来より八王子街道の宿場町として栄え、戦時中は陸軍士官学校及び高座海軍工廠の設置により軍都としての色合いを強めました。戦後は米軍の進駐を経て、昭和30年代には大企業を誘致し、自動車産業の企業城下町となり、工業都市及び、首都圏のベッドタウンとして変貌を遂げ、現在では県下39市町村中4位の人口密度をもつ市となりました。
座間のあゆみ
市域には、2〜3万年前から人々が住み始めた遺跡が残っており、 縄文時代の特に4〜5千年前の土器や石器などが、相模川の河岸段丘、目久尻川両岸の台地で、数多く発見されています。弥生・古墳時代の住居・古墳跡から、入谷・座間・栗原などの集落の骨格が形成されたと考えられています。座間は、交通の要所であったと記録されており、「続日本紀」や「和名類聚抄」にある相模国高座郡伊参を座間の地と伝えているそうです。
鎌倉時代は、源頼朝の家来たちが武士団(横山党、鎌倉党、山内党など)を結成し、相模国を支配していました。市域は山内党の渋谷氏が治めていました。武士達は土地の名前に自分の名字を当て、原野を開墾し、領地を広げ、土地を命懸けで守りました。「一所懸命(一生懸命)」とは、ここから生まれた言葉だそうです。
江戸時代になると市域は関東総奉行、内藤清成が支配し、新田宿村や四ツ谷村など約7ヵ村の村がありました。江戸中期には旗本の支配下になるとともに、5ヵ村になります。この頃、水田の水源は鴨川しかなかったため、相模川から5ヵ村用水を引き、用水路を作りました。そして後期になると寺子屋教育、農業技術の習得、芸能など文化活動が盛んになりました。また、座間野の原野は入会地や鷹狩りの場として利用され、この地が鷹狩の場だった名残が今の鷹見塚などの地名に残っています。現在の大凧祭りの起源はこのころで、相模川沿いで青年たちが盛んに凧をあげていたそうです。
明治時代には、廃藩置県・町村制により市域は神奈川県に属し、座間入谷村・座間村・栗原村・新田宿村・四ッ谷村の5ヵ村が「座間村」として合併しました。大正から昭和初期には鉄道や電気など近代化が進み、昭和12年(1937)に東京から陸軍士官学校が移転(現在のキャンプ座間)すると、まちは軍都として歩んでいきます。同年12月に町制を施行して「座間町」となりますが、4年後には「相模原軍都計画」に基づき、6村2町が合併し「相模原町」になりました。しかし座間町は合併に不満だったらしく終戦後は独立し、新生「座間町」の出発となりました。
その後、国のめざましい経済発展に呼応して人口増加、都市化が進み、昭和46年(1971年)に「座間市」が誕生しました。現在では、人口12万を超える県央の中核都市として、未来像「みなぎる活力とやすらぎが調和するときめきのまち」の実現に向けて、歩みを続けています。
座間の名前の由来
・東海道の伊参(いさま)駅が「伊佐間」となり、のちに「伊」を除いて「ザマ」となった
・高座郡の「中の間(小平地)の集落」という意味から「座間」となった
などのさまざまな諸説があります。
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座間市歴史民俗資料室(座間市公民館内) |
| 住所: |
座間市入谷1-3097 [地図を見る] |
| 電話番号: |
046-255-3131 |
| 開館時間: |
9:00〜16:00 |
| 休館日: |
毎週月曜日(祝日の場合は火曜日)、祝日、年末年始(12/28〜1/3) |
| 入館料: |
無料 |
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